昭和48年11月4日 特別奉修委員
中村良一
信心の稽古をさせて頂く、繰り返し繰り返し、まぁ、同じ様な事を稽古させていただく。同じ様な事だけれども、やはり、それが有難い、それが楽しいという信心をさせて貰う。それは、やはり、一つの焦点というものが、本当のおかげが頂きたいと言うことだと思うです。もう、本当のおかげが頂きたいという事は、本当の信心がさせて頂きたい。本当の、真の信心を願っておるということなんです。ですから、問題は、それがね、やはりあの、信心辛抱と言われますから、辛抱し抜かれなければいけない。その間には、様々な失敗もありますし、思い違いも、考え違いもありますけれども。焦点が、そこに置かれておると、神様があの、段々、何時の間にか、本当なものにしてくださるし、何時の間にか、本当な事が身に付いて来るようになってくる。問題は、だから、あの、辛抱し続けなければいけないという事ですね。場合によっては。
先ほどもあの、波多野さん、ご親戚の、遠い親戚の方ですけれども、あの、その御霊様のことのお届けがあっておりました。昨日、おたち日だというお届けがあっとったところが、今日また、しとりなさいますもん。だから、昨日は間違いだったと、今日が本当だったと、こういう訳なんです。それで、そら、おかげ頂きなさったですね、もう、今日の、例えば、御祈念を受けなさる御霊様が、もう、昨日から、言うなら、されとるとじゃけん、そりゃ、間違いじゃない。やっぱ、間違いさせられとるとじゃ、と言うて、まぁ、申しましたことでしたけどもね。間違わさせられたり、神様が、わざわざ、失敗させなさって、失敗しなければ、分からない、出来ない、迫力が出てこないと言うようなご都合があるようです。ですから、そこんところが、やっぱ、頂き続けられなければいけない。
昨日は、大変まぁ、深刻な失敗の事の、ある方のお届けがあったんです。もう、どうしてそんな、あなたほどしの人が、どうしてそんな事で、そげな失敗しなさったですけち言うような事だけども、もう、すんだことですから、仕方がない。それで、もう自分では、これではいけん、これではいけんと言いながら、結局、そうなってしまったと、こういう事ですね。普通で、まぁ、道徳的な生き方から言うと、もう、それは、許されない様な事なんだけれども、そこが、信心と道徳との違いだと、私は思わせていただいたんですけれども。その事をお取次ぎさせてもらいよりましたら、あの、何と言うですかね。イカの卵を和えたのを頂きますですねぇ。イカの刺身を、きない、卵のきなみの所で頂くでしょう。酢か醤油かで味をつけてね。それをその、一切れ一切れ頂いてですね、結局、最後まで頂いてしまった。イカという事は、私は、いかんということだと思うです。だから、本当は、いかん、こげなこっじゃいかん、こげなこっじゃいかん、信心させてもらいよって、こげなこっじゃいかんと、言いながら、人間の弱さというものがね、やはり、それを、結局、最後まで、食べてしまって、ほんなら、結果が、こんな困った結果になったと、こう言うのです。ね。だから、いかん、だから、イカをするめにしておかげを頂きゃ徳になると教えられるですね、神様は。こんなこっじゃいかん、こんなこっじゃいかんというところを、踏ん切りをつけてです。その、いかんというのを、もう、いっちがするめという事になってくるとね、それと、それを辛抱して、例えば、干しあがし、干上がらかしますかね。そすと、それが、するめになるわけです。それこそ、噛めば噛むほどの味わいというか、お徳になるです、ね。そういう、生き方もありゃ、ほんなら、その、自然、何ていうですか、惰性というか、人間の弱さというか。はぁ、こんなこっじゃいかん、こんなこっじゃいかんと言いながら、一切れ食べ、二切れ食べしとるうちに、一杯食べてしまう。もう、いけなくなってしまってるち言うわけなんです。
私は、そればってん、その御理解頂いて、はぁ、はぁ、本当、神様ちゃ、もう、ある場合には、間違いをし、ある場合には、失敗をさせて、本当な事、そこんところにね。信心は、あの、芸術だと言う様な事を言った人がありますが、本当にそうです。もう、何ともかんとも言えんような味わいがね、その失敗して、もう、いよいよいけん、もう、私のようなものは、もう、つまらんと思うところに、思わせといて、次のほうには、次のおかげの準備がしてあると言うことなんです。と言うのはですね。次にはね、私が、御神願頂くとは、その、茶碗蒸しの材料が、茶碗の中に、ちゃんと入れてあるんです。その、茶碗蒸しの材料が、くわいですね、それから、イカやらも入ってましたが。一番上に、青いものに、ほうれん草が、ちょっとこう入っててね。その、それから、筍が入ってる。これがその、例えば、いかん、いかんで、こんなこっじゃいかん、こんなこっじゃいかんと思いながらも、心を、神様に、私が、何時も向けておりますから、その御詫びの印にと言うて、身の皮を剥いで、それこそ、筍じゃないけれども、様にして、その間、やっぱ、修業して来とるわけです。ね。こんなもんな食うちゃいけんという事を、その言いながらのその、くわいの信心が出来たり、その、筍の信心が出来たり、または、その、まぁ、その中に、まぁ、色々入っとるとに、一つ一つ御理解があるんですけれども、それは、それば話してしまいよると、全部が分かることになるから話しませんけれどね。そういう、例えば、いかん、いかん、信心しよって、こげなこっじゃと思いながら、信心させて貰いよるから、ほんなら、お詫びの印にといったような修行が出来よるです。出来よるうちに、片一方のほうでは、茶碗蒸しの材料が出来よる。さぁ、ここで、ひと熱、入れさせてさえいただきゃ、いわゆる、蒸してね、またその、入れて、卵がといて入れてあるというだけなんですよ。だから、これを、蒸し器にかけるという事は、ここに、一つ、熱をかけさえすれば、こういう失敗を、人生の、例えば、長い人生のなかには、こういう、あぁいう、例えば、あの人は、人物であり、人格者と言われるほどしの人が、こういう事で、こげな失敗をした、また、自分も、失敗をしたと思うておる。けれども、信心の心というものは、やっぱ、神様に向けておりますから、改まりは出来なかった。いわば、イカば、するめにゃすることは出来なかったけれども、その間にです。辛抱し抜いていくうちに、茶碗蒸しの材料が出来とる。私はもう、本当、もう、あの、この神様ちゃ、確かに親神様だなと思いますね。そげなこつじゃけんで、罰かぶるたいというごたるこつは、決して無いという事です。その、普通でいうなら、罰かぶると言う様な事をしでかさせて貰うとですよ、いうならば。そして、ここにはですね、もう、イカの刺身じゃないけれども、その、茶碗蒸しと、まぁ、こりゃ、おご馳走でいや、最高のおご馳走と、日本料理では言われておりますよね。そういう、こりゃもう、本当に、もう、味合うても付きないほどしの味わいのおかげがです。けれども、ここに、ひと熱入れなければ、いけないよという事です。なら、先生、そういうことをお許しいただくでしょうかと言うて、もう、大変、感動して帰られました。こういう失敗を、その失敗を繰り返させていただいておるうちに、くわいが出来たり、筍が出来たり、材料が全部、揃うてしまった。そして、その代わりに、ほんなら、ここでは、もう、ぎりぎり、普通でいうならば、もう、どうにも出来ないと言うところまで行ってるんですけれども、ね。そこから、もう、ひと熱入れるとこから、ほんなら、思いもかけない茶碗蒸しのおかげが受けられると言うことになる。信心させていただいて。けれども、だから、心を、もう、私のようなもんなつまらんと言うて、辞めたりしたら、もう、それまでですけれども。とにかく、ただね、ただ、おかげ、おかげで、おかげだけで辛抱しとったっちゃつまらん。本当な信心が分かりたい。いや、本当なおかげが頂きたいという、願いの元に、信心が続けられておるなら、その間、どのような失敗があってもね、どのような、例えば、普通でいうならば、まぁ、道徳的に言えば、信心しよって、あげなこつで良かじゃろうかと言った様な事があったにしてもです。それを、神様は、ね。分からないうちに、おかげにしてくださる働きというものがあっておるという事です。もう、どの手かで、いわば、徳をやろう。どの手かで、本当のおかげを授けようと言う働きを感じます。ね。ただし、その信心が、ただ拝むだけ、ただおかげさえ頂きゃ良いと言った様なね、信心からは、そんなものは生れませんよ。ね。やはり、教えを頂けば、頂くほど、そうあらなければいけない。本当の信心が分かりたい。本当のおかげを頂くなら、本当のおかげを頂きたいと言う願いの元にです。信心しよっても、そこが生身ですから、転ぶこともありゃ、怪我することもありますけれどね。それが、続けられていくうちに、はぁ、私が、考えてみて、あれも失敗させられとった。あれも、神様が、わざわざ、間違いさせてござったなぁという様な風に感じられるようなおかげになってくるです。そういうおかげを頂きたいですね。一生がかりで頂きたいですね。だから、問題は、目指すところがね、結局は、真の信心でなからなければいけないという事です。真の信心が、そう、一年二年で、パタッと出来るはずがありませんしね。その間に、例えば、転んだり、ね。起きたり転んだりさせていただきながら、そのうちに、ね。本当のものを分からせてください。本当の事になってくる様な、お繰り合わせが頂けるんですよね。どうぞ。